このサイトでは憲法を学んだことのない人を「憲法道程」と呼んでいますが、その「憲法道程」に限らず、憲法を学んだことのある道程喪失済みの人の中にも日本国憲法が具体的にどのような過程を経て制定されたのか、という点を正確に理解していない人は多いようです。
憲法の制定過程が一般にあまり知られていない理由は定かではありませんが、この「憲法が具体的にどのような過程を経て制定されたのか」という憲法の制定過程にかかる事実も、こと「憲法の改正」が議論される場合にはその是非を考えるうえで非常に重要な要素となります。
なぜなら、憲法改正の議論は「今ある憲法」をどのように改正するかという議論ですが、そもそもその「今ある憲法」が具体的にどのような事情のもとで、どのような議論がなされて、どのような経緯を経て制定されたのか、という日本国憲法ができるまでの過程を十分に理解しておかなければ、「憲法改正が必要なのか必要でないのか」という点を冷静に判断することができない面も少なからずあると考えられるからです。
特に、今の日本には現行憲法がアメリカやマッカーサー、GHQや連合国から「押し付けられたものだ」と主張するいわゆる「押しつけ憲法論者」が少なからずいますが、憲法制定過程の具体的事情を十分に理解していなければ、そのような論理破綻した有害無益な押しつけ憲法論(※参考→「押し付け憲法論」を明らかに嘘だと批判し反論できる15の理由)に洗脳されてしまい、「押し付けられた憲法は破棄して自主憲法を制定すべきだ!」などと安易な憲法改正に同意してしまう可能性があるので大変危険です。
そこでここでは、日本国憲法が具体的にどのような過程を経て制定されたのか、その経緯をポツダム宣言受諾から順を追って確認してみることにいたしましょう。
なお、ポツダム宣言受諾から具体的にどのような経緯を経て日本国憲法が制定されたのかという点は、文献としては
- 芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店
- 古関彰一著「新憲法の誕生」中央公論社
ウェブ上で確認可能な資料としては、衆議院の憲法審査会が編纂した
にそれぞれわかりやすくまとめられていますので、興味のある方は一読してみるのもよいでしょう(芦部書、古関書などは古本屋で2~300円で購入できます)。
日本国憲法の制定過程における具体的な事情、状況等
ポツダム宣言の受諾から日本国憲法の制定・施行に至るまでの具体的な過程は、衆議院の憲法調査会の作成した資料を読むと、大きく分けて以下のような3つの段階に分類されています。
【日本国憲法の制定過程】
- 第1段階
ポツダム宣言の受諾から日本政府がGHQ草案(総司令部案)の交付を受けるまで - 第2段階
日本政府が総司令部(GHQ)との折衝で憲法草案を作成し、帝国議会の審査を経て新憲法が制定されるまで - 第3段階
憲法制定後、連合国側から憲法の再検討の提案がなされるまで(日本政府が憲法改正の再検討を行わなかった事実)
そこでここでは、ポツダム宣言の受諾から憲法が制定されるまで、そして制定後に連合国側から憲法改正の提案がなされるまでの制定過程を、この3つの段階に分けてそれぞれ具体的にどのような経緯や事情が見られたのか、確認していくことにいたしましょう。
≪第1段階≫
ポツダム宣言の受諾から日本政府がGHQ草案(総司令部案)の交付を受けるまで
【1】ポツダム宣言の受諾~敗戦
(昭和20年8月14日~15日)
日本国憲法の制定に至るまでの過程の第一歩は、ポツダム宣言の受諾から始まります。
ポツダム宣言は旧日本軍の無条件降伏を内容とするものになりますが、日本が敗戦を認めポツダム宣言を受け入れた以上、そのポツダム宣言に定められている条項を誠実に履行する国際法的な義務が当時の日本政府(大日本帝国政府)に課せられたと解することができます。
この点、ポツダム宣言の条項では「民主主義」はもちろん、「言論の自由」「宗教の自由」「思想(良心)の自由」「基本的人権の尊重の確立」その他「国民主権主義」であったり「平和主義」などを実現することが明確に要求されていましたので(ポツダム宣言10項および12項)、戦後の日本では、このポツダム宣言で定められた条項に沿って新たな国づくりを行うことが国際的義務として課せられたということになります。
【ポツダム宣言】
第10項 (中略)日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし 言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし
第12項 前記諸目的が達成せられ且つ日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるにおいては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし
(出典:ポツダム宣言|国会図書館※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています。)
ただし、「国民主権」については極東委員会(※注1)やGHQ(マッカーサー以下の総司令部(※注2))側が「ポツダム宣言から当然に要求されるもの」と理解していたのに対し、日本政府側は「国民主権原理は必ずしもポツダム宣言から要求されるものではない」と解釈し「天皇主権とする明治憲法の改正は必ずしも必要ない」と理解していた部分で齟齬があったようです。
【2】幣原内閣誕生
(昭和20年10月9日)
ポツダム宣言を受諾した日本では昭和20年10月9日、戦後処理に奔走した東久邇宮内閣に代えて幣原喜重郎を首相に据える幣原内閣が誕生します。
【3】松本委員会の発足
(昭和20年10月11日、同月25日)
新しく首相に就任した幣原首相は10月11日、GHQの総司令部を訪問します。
その際、幣原首相はGHQの総司令官であるマッカーサーから「明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆」を受けたため、10月25日に国務大臣の松本丞治を長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を発足させて憲法改正作業を開始させることにしました(※注3)。
なお、この時のマッカーサーは幣原首相に対して「明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆」を行うために以下の5つの指針(いわゆる「マッカーサーの五大改革要求(憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院14頁参照)」)を提示し国政変革の必要性を説いたと言われています。
【マッカーサーの五大改革要求】
- 「婦人参政権の解放」
- 「労働組合の促進」
- 「自由主義的教育の実現」
- 「検察・警察制度の改革」
- 「経済機構の民主主義化」
なお、この際幣原に提示されたマッカーサーの五大改革要求では憲法9条につながるような「戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認」は示唆されていなかった点に留意する必要があります(※この点の詳細は→憲法9条の戦争放棄と戦力不保持が日本人のオリジナルである理由)。
【4】松本委員会が松本四原則に基づく松本案(憲法改正要綱)の起草に着手する
(昭和20年12月~昭和21年1月)
松本委員会ではすぐに改正憲法の草案作りを開始します。
松本委員会では明治憲法(大日本帝国憲法)の規定を微修正するだけの改正を望む委員(委員長の松本丞治や顧問として招聘された憲法学者の美濃部達吉など)と比較的リベラルな立場からの改革を望む他の委員との間で様々な意見が議論されました。
特に「世界最初の非武装平和国家」になるべく明治憲法に置かれていた「軍に関する規定」をすべて削除する案(乙案)が出されるなど、現行憲法の9条に限りなく近い理念の議論が行われていた点は重要でしょう(※この点の詳細は→憲法9条の戦争放棄と戦力不保持が日本人のオリジナルである理由)。
もっとも、この松本委員会では明治憲法(大日本帝国憲法)を微修正するだけの意見を集約した「甲案」と、甲案よりも自由主義的立場の意見を若干取り入れた「乙案」の2つの草案が作成されましたが(松本委員会「憲法改正要綱」と「憲法改正案」 | 日本国憲法の誕生|国会図書館)、松本委員会の議論を主導した委員長の松本丞治と顧問の美濃部達吉が保守的な思想を持っていたため、結局は以下に挙げる「松本四原則」に沿って起草した保守的な「甲案」が最終的な改正案として採用されGHQに提出されることになります。
【いわゆる「松本四原則」】
- 天皇が統治権を総攬せられるという大原則には変更を加えない。
- 議会の議決を擁する事項を拡充し、天皇の大権事項を削減する。
- 国務大臣の責任を国務の全般にわたるものタラ占めるとともに、国務大臣は議会に対して責任を負うものとする。
- 国民の権利・自由の保障を強化するとともに、その侵害に対する救済方法を完全なものとする。
※以上『芦部信喜「憲法(第6版)」岩波書店』24頁より引用
≪注釈≫
「天皇が統治権を総攬せられるという大原則」とは、明治憲法(大日本帝国憲法)の第4条に規定された「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という条文をそのまま維持するものであり、「統治権の総攬者としての天皇の地位を温存しようとするもの(※注4)」であったと解釈されています。
この松本四原則を基礎にした「甲案」は明治憲法(大日本帝国憲法)に部分的な改正を加えることで国体(天皇主権)の護持を図ることを意図したものだったのですが、国民主権主義の採用を要求するポツダム宣言の趣旨や極東委員会(※注1)、GHQ(マッカーサー以下の総司令部(※注2))の要求にこたえるものでなかったことから、後述するように大きな問題を生じさせる結果となります。
なお、昭和20年の12月から翌年の春ごろにかけては、この松本委員会とは別に民間グループの間でも活発に憲法草案(私案)が作成され新聞や雑誌等で公表されていた事実がある点も留意しておく必要があります(※参考→GHQ草案は日本人が作った憲法草案の影響を受けている?)
【5】婦人参政権を認める改正衆議院議員選挙法の成立と衆議院の解散
(昭和20年12月15日、同月18日)
松本委員会が憲法草案を起草している最中、国会(帝国議会)では婦人参政権や選挙権・被選挙権の引き下げを含む「改正衆議院議員選挙法」の成立(昭和20年12月15日)と衆議院の解散(同月18日)が行われます。
衆議院の解散については、戦争中の軍部の地位を支えた翼賛議員(旧大政翼賛会出身議員)によって構成される衆議院を刷新することを目的としたものと考えられていますが(※注5)、【13】で後述するように憲法改正に関する国民の意識を問うという意味合いもありました。
【6】毎日新聞のスクープで「松本案」がすっぱ抜かれる
(昭和21年2月1日)
先ほどの【4】で述べたように、松本委員会では「松本四原則」に基づいた憲法草案が議論されていたわけですが、その松本委員会が起草した「憲法草案(松本案)」が2月1日付けの毎日新聞のスクープによりすっぱ抜かれます。
ちなみに「松本案」の主な項目は先に挙げた衆議院の憲法審査会が作成した『「日本国憲法の制定過程」に関する資料』に記載されていますので以下にその一部を引用しておきましょう。
【松本案の主な項目】
- 明治憲法第3条「天皇ハ神聖二シテ侵スヘカラス」を「天皇ハ至尊二シテ侵スへカラス」と改める。
- 軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の対象とする。
- 衆議院の解散は同一事由に基づいて重ねて行うことはできないこととする。
- 緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。
- 宣戦、講和及び一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする。
- 日本臣民は、すべての法律によらずして自由及び権利を侵されないものとする。
- 貴族院を参議院に改め、参議院は選挙又は勅任された議員で組織する。
(※出典:「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院|27頁を基に作成)
【7】「松本案」に驚いた総司令部(GHQ)が独自の憲法草案の起草に着手する
(昭和21年2月3日)
【6】で述べたように、松本委員会が起草した「松本案」では明治憲法(大日本帝国憲法)で規定されていた「天皇主権」がそのまま温存されていたわけですが、その毎日新聞のスクープ記事を見たマッカーサー以下のGHQ(総司令部)は困惑し驚きます。
なぜなら、先ほども述べたようにGHQや連合国諸国は「ポツダム宣言は日本に国民主権原理を採用することを要求しているもの」と理解していたわけですが、松本案では「天皇主権」が温存されている一方で、国民の権利や自由の保障が強化されているとはいっても「国民主権主義」が明確に規定されていなかったからです(※参考→天皇制を守るため仕方なく押し付け憲法を受け入れた…が嘘の理由)。
憲法改正草案を国会(帝国議会)に提出し国会で審議を行うためには連合国側の理解を得る必要がありますが(※注7)、先ほども述べたように連合国側の指導者は「ポツダム宣言は日本に国民主権原理を採用することを要求している」と解釈していましたので、「松本案」を憲法改正草案として提示しても連合国諸国の理解は得られません。
それに、連合国の一部では天皇制廃止論が根強く残っていましたので、「松本案」がそのまま公になってしまうと「ポツダム宣言を受け入れたにもかかわらず日本政府は国民主権主義を採用せずに天皇主権を維持しようとしている」と認識され、天皇制廃止論を主張する連合国の一部の勢力に格好の攻撃材料を与えることになり天皇制廃止論が顕在化する危険性が生じます。
しかし、マッカーサーは日本における占領政策に天皇制は必要不可欠と考えていましたから、「松本案」のような保守的な憲法改正草案が連合国が後に組織する極東委員会で問題にされ、極東委員会で天皇制廃止論の議論に拍車が掛けられてしまう事態だけはどうしても避ける必要がありました。
そのため、マッカーサー以下の総司令部(GHQ)は、このまま日本政府に憲法草案の起草を任せれば戦後の占領政策に大きな支障が出ると考えるに至り、独自の憲法草案を作成することを決意してその起草に着手することになったのです(※参考→日本国憲法の制定にGHQやマッカーサーが関与したのはなぜなのか)。
【8】日本政府が「松本案」を基にする「憲法改正要綱」を総司令部に提出するが拒否される
(昭和21年2月8日)
毎日新聞のスクープがあった1週間後の2月8日、日本政府は前述した「松本案」をもとに作成された「憲法改正要綱」を総司令部(GHQ)に提出します。
しかし、【7】で説明したような事情がマッカーサー以下の総司令部(GHQ)にはありましたから、当然その「憲法改正要綱」は総司令部(GHQ)に拒否されます。